道徳モジュールはインストールできるか?(2019.12.25)

ロリケン第6回の教材は『ロボットからの倫理学入門』(久木田水生他、名古屋大学出版会、2017年)。

「ロボットは道徳的になりうるのか」を議論することで現代の道徳哲学を概観し、人間とは何かに迫った好著である。

たとえば、あなたが誰かに殴られたとする。

殴ったのが大人なのか、子供なのか、強制的に洗脳された人なのか、心身が病で冒されている人なのか、ロボットなのか、イノシシなのか、石ころなのかで対応が変わる。

一般常識としては、責任を問えるのは自由意志をもって行動を自律的にコントロールできる人である。

だから大人には厳しく責任を問い、子供には穏便な対応をするといった使い分けをする。

 

わたしたちがむやみに人を殴らないのは、そうすることはよくないことで、罪に問われることを知っているからだ。

それは社会の規範であり、わたしたちはある行為と称賛・非難の関係を一種のメカニズムとして了解している。

ところが、その規範はわたしが自由意志で作り上げたものではなく、文化や習慣といった既存の規範を受け入れているに過ぎない。

こう考えると、わたしたちが道徳的に正しいことをするのも、自由意志からではなく、ありものの行動メカニズムに従っているからにすぎないことになる。

このような考え方を「決定論」という。

行動の根拠を自由意志ではなく、規範的なメカニズムに求めるなら、ひょっとしたら道徳的な行動は人工的にプログラム可能なのではないかという考えが頭をもたげる。

そのような道徳モジュールをインストールされたロボットは、人間と同じように道徳的な責任を問える可能性が出てくるわけだ。

 

さて、決定論に立つと、わたしたちは社会規範のメカニズムに沿って行動しているわけで、よくないことをしたときに、本当に悪いのは手を下した個人ではなく、メカニズムだということになる。

全ての人が「洗脳」されている状態ということだ。

そうなると責任をだれに問うこともできないので、さすがにそれではみんなが黙っちゃいない。

多額の金品を賄賂として受け取った役人は厳しく罰せられて当然だ、と考える。

だから、少なくともそのメカニズムは自分自ら形成したという「幻想」をもとに、悪いことをした本人に責を負わせることにしている。

社会秩序のための「報復」システムということだ。

なんだか現代版「目には目を、歯には歯を」のような話だが、これは「幻想主義」と言って、立派な道徳哲学の主要な論点である。

 

さて、本を読むまでもなく、道徳的に生きることはとても難しいことである。

会社の論理によって、ある人に辞めてもらうことにしたが、その人の悲しみや周りの家族のことを考えると心を痛めるといったことはいくらでもある。

自由意志論に立つか、決定論に立つか、幻想論に立つかはともかく、相手の心情を思い、痛みに共感することが道徳的であることの条件だろう。

大げさに言えば、他人の心の痛みに共感して自らの傷として抱え、長い年月とともに大勢の痛みを抱えていくことが、人間が成熟していくということではないだろうか。

ロボットなら、そのような痛みが一瞬メモリに常駐して処理が重くなったとしても、再起動できれいさっぱりクリアされ、サクサク動き始めるだろう。

他人の称賛や非難のメカニズムとは別に、消してはいけない記憶を残し、他人の痛みを背負い、悲しみのフィルタを通して行動する。

これが人間の本分なのではないだろうか。

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