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ソフトウェアオブジェクトのライフサイクル

これからの経営を考える参考にならないかとSF小説を漁っているうちに、テッド・チャンという中国系アメリカ人の作家を知る。世界観、プロット、現実的なディテール描写において抜群だと感じた。映画化された作品(映画タイトル「メッセージ」)もある。ちなみに、ベストセラー『三体』をはじめ、SF界での中国系作家のプレゼンスは相当なもの。

先日のロリケン(論理と倫理研究会)で、同氏の『ソフトウェアオブジェクトのライフサイクル』という作品を取り上げた。その無機的なタイトルが著者の目論見を表している。ストーリーの起伏は抑制され、小説というより記録。架空のケーススタディ、考えるための教材である。

コンピュータ内で架空の生物を育てるゲームが舞台。その生物が無垢な赤ん坊からスタートし、人間の子供のように認知能力が発達する。育て方により性格や読み書き能力が変わるので、親(プレーヤー)にとっては唯一無二の存在に。愛着がわくが、わがままに育つとやっかいになったりもする。ロボット筐体のメモリにコピーすることで、リアル世界でも動き回ることができる。人間の生活空間内でコミュニケーションが生まれ、人間社会との関係が緊密かつ複雑になり、さまざまなエピソードが生まれる。ソニーのアイボが(ちょっと頼りない)知性を持った感じ。

言葉を覚え、遊びを覚え、技能を身につけ、人間の役に立つ仕事ができるものも現れる。また、自由を好んだり、死を恐れたりする。子育てのアナロジーで話は進み、ついに「それ」らは自由を求めてお金をせびったり、法的に保護される主体の地位を確保するための「法人化」を志すようになる(法人化のくだりはビジネスパーソンにとっては興味深い)。

「それ」らの行動は、何が好ましいかを規定した「報酬マップ」というプログラムで導かれる。認知能力の発達に伴い、この報酬マップも書き換わっていく。小説のクライマックスでは、「それ」らに「性」を与えるために報酬マップを強制的に書き換えることが議論される。人間に性的サービスをするビジネスのためである。クライアントが性的興奮を覚えたことを、「それ」の喜びとするようなプログラムだ。報酬マップを第三者が書き換えることは倫理的に許されるのか? 本人(「それ」)が了解していればよいのか?

ややぞっとする未来の話だが、このフレームを用いるなら、人間だってたいして変わりがないことに気が付く。人間は異性を好きになるという「報酬マップ」があらかじめ組み込まれているわけで、その点で、人間もソフトウェアのひとつである。タイトルの『ソフトウェアオブジェクトのライフサイクル』は、人間のことでもあったのだ。

私たちの行動は何に規定されているのか?

生物種としての先天的なプログラムによるのか、後天的に獲得されたひとりひとり異なる「個性」によるのか? 前者なら決定論であり、後者は自由意志論の主張である。主としての生物と個体の間に、一定規模の集団としての文化や倫理という制約要因もある。わたしたちはどこまで自由に行動できるのか?

本書では、自らの経験に基づいた個性、すなわち独自の経験を積み重ねることでプログラムが書き換えられるのであればよしとするという仮説が提示される。しかしながら経験とは、行動によるものだから、その元をたどればデフォルトのプログラム次第ということになり、決定論に戻ってしまう。

それを克服しようとすれば、経験に偶然の要素を入れるほかない。偶然に起こるできごとに対応しながら、意図せざるプログラムの書き換えに期待せざるを得ない。意図とは、すでにプログラムされちゃってるものだから、意図したことばかりやっていてはダメなのだ。前もって準備されたプログラムを裏切るような想定外のできごとこそ、私たちを変え、新たな可能性を拓くことになるはずだ。

人との物理的な接触機会が減ると、偶然が起きにくくなる。コロナ禍の大問題はそれだということに気が付いた。

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